その1(『ランダム・ウォーク』)

(プロローグはこちら)


 

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 自慰をしながら、心のなかに、古い洞窟を思い浮かべる。

 

それは狭くて、薄暗くて、乾いていて、居心地の良い場所。

 

人びとは、暴風雨に行き当たった時だけ、洞窟に駆け込んでくる。ひととおり水を落とし、服を脱ぎ、裸の背をひんやりとした砂地に横たえる。

 

世界にとって僕は、そうした洞窟のような存在なのだと思う。

 

雨はじきに止み、人びとがまた外に出ていくことを、僕は知っている。酒に酔ったように浮かれて、心のひだまで分かちあってくれた人が、振り返ることなく洞窟を後にする姿を、何度も見送ってきた。

 

きみが暗闇で見せてくれた火傷の跡に、なすすべもなく欲情する。僕は、僕が洞窟であることを心から喜び、そして憎んでいる。きみをこの胎内に捕まえておきたいという願いが叶うことは、永遠に無い。

 

静まり返ったアパートの布団のなかで、僕は射精を迎える。その瞬間だけ、世界との間に不完全な橋が架かる。吐き出された温かな生き物の気配をティッシュ越しに感じて、悔しく甘酸っぱい感情が、胸を満たす。

 

 

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電車のドアが閉まると、蝉の声が遠くなった。九月初めの都心を走る電車には、夏休みの子どもたちの賑わいが、まだ残されているような気がした。

 

ビジネスバッグを棚に上げ、背負っていたリュックサックを胸に抱えて、長い座席の右端に腰を下ろす。乗客の数は少なく、妙な荷物の取り合わせに気付いた人はいないようだった。

 

ジャケットの胸の内側から、スマートフォンを取り出す。ラインのアイコンに、赤い印が宿っている。

 

―何両目ですか?

 

前から三両目、一つ目のドアの近くです、と打ち込むと、竹岡さんから、わかりましたというスタンプが送られてきた。

 

しばらくスタンプを見つめた後、大きく親指を躍らせて、画面を消す。思いついて、座る位置を少しずらした。右側にできた空間をリュックで埋める。手の甲にシートの柔らかい羽毛が擦れて、僕はそのまま右手を投げ出すような形で座っている。

 

大きなターミナル駅で、竹岡さんは人の列の最後に乗り込んできた。

 

「待ちましたか?」

 

首を振ると、電車だから待ったもなにもないか、とおかしそうに呟く。薄い色をしたリネンのTシャツに、履き古したデニム。駅ナカの店でテイクアウトしたらしいアイスコーヒーを手にしている。リュックの占めていた場所に竹岡さんが収まると、ミルクのような匂いが立ち上がった。心臓が心地よいリズムを刻みはじめて、僕は目を瞬く。竹岡さんのスニーカーは僕の革靴の半分ほどの大きさで、つま先は行儀よく前を向いていた。

 

「ねえ、なんでそんな恰好してるんですか」

 

「昼までお客さんの会議があって、直接来たからです」

 

ふぅん、と気のない返事をして、竹岡さんはごくごくとコーヒーを飲んだ。白い喉が大きく上下して、冷たい飲み物を迎え入れてゆく。昼下がりの眠ったような電車のなかで、窓から射し込む陽光に照らされた竹岡さんの喉は唯一、獰猛な獣のように感じられた。

 

既に電車は動き出していた。たくさんポケットの付いた、登山用のリュックサックに顎を埋める。前回このリュックを持ち出したのはいつだっけ。眼前に迫った黒い布の上に薄い埃の列を見つけて、僕は慌てて指を這わせ、灰色の線を消し去った。

 

沈黙が続いてゆく。電車の揺れに合わせて、右肘が竹岡さんの左腕に触れる。汗の退ききらない肌はしっとりと湿っていて、右側に座る竹岡さんのほんわりとした気配を伝えてくる。僕はその柔らかくて真っ直ぐな存在を大切にしたいと思う。鳥の巣から卵を取り上げるような感覚で、小さく肘を動かして、僕は竹岡さんとの接触を絶つ。




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キャンプに行きませんか、というメッセージをもらったのは、何度か仕事の打ち合わせを共にした後、SNSで竹岡さんと友人になった直後のことだった。

 

―いきなりですみません。山でコーヒーを淹れて飲んでみたくて。ユカワさんなら、そういうのに付き合ってくれそうな気がしました。笑

 

僕は狐につままれたような気持ちで、はい、いいですよ、と返信していた。片仮名になっている自分の苗字が、なんだか間抜けに思えた。

 

竹岡さんのことは気になっていた。同席する会議のなかで、彼女はいつも、真実に触れようと懸命に手を伸ばしているように見えた。たとえ相手が上席にあたる人物だったとしても、竹岡さんは臆さずに正しいと思われることを述べた。時々、まっとうな指摘を食らった相手が、ダウンしたボクサーみたいに、会議室の隅でうなだれていることもあった。だけど、彼女の言葉には、一切の悪意が含まれていなかった。誰かを糾弾したり、非難したりする目的で、彼女が自身の頭の良さを利用することは一度もなかった。僕はそうした彼女の純粋なところに惹かれた。誰も傷つけないように良い人ぶって、言いたいことを抱え込んでしまう自分とは、対極にある人だと思った。もちろん、山のなかでコーヒーを飲むというアイデアを思いつくようなところも、素敵だなと感じたけれど。

 

他にもお互い誰か誘おう、と言いながら、結局他の人たちは都合がつかなかった。前の日、待ち合わせの手順を確認しながら、二人でいいですよ、と竹岡さんは書いていた。メッセージは、会議室での彼女の振る舞いと同じく、淀みのないリズムで送られてきていた。僕は想像することを諦めて、リュックサックに荷物を詰めた。部屋の隅に放り投げられた、封の開いたコンドームの箱が目に留まる。数か月前に恋人と別れた後、家に残された痕跡のうちの一つだった。竹岡さんとそんな風になるのかどうか、見当もつかなかったけれど、この小旅行には持って行くべきものであるように思えた。僕は箱からコンドームをひとつ摘んで、財布に滑り込ませた。




(つづく)