【本屋大賞】森見登美彦『熱帯』をめぐって【直木賞ノミネート】

森見登美彦『熱帯』をめぐって~ 

 

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※本稿は森見登美彦『熱帯』(2018.11 文藝春秋)に関する感想です。

あまりネタバレはしませんが、多少は作品内容に触れるので、まっさらな状態で楽しみたい方は読み終えてからまたいらしてください!

 

 

・はじめに

ー『熱帯』最高!!色々考えたことを書きます。

 

  11月23日に森見登美彦『熱帯』を読み終えました。

 とにかくめちゃくちゃ面白かった!!

 2018年のベスト3に入るし、全森見作品の中でも出色の出来です。

 

 夢中でページをめくり、読んでいる間はずっと幸せでした。

 

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 10代の終わりで森見作品に出逢ったので、森見作品との付き合いはかれこれ7.8年になりました。

 古今東西の色々な文学を読んでいく中で森見作品と疎遠になった時期もありましたが、直近だと『夜行』はいたく感動しましたし、友人の翻訳家Emily Balistrieri(彼女も無類の森見好きで、それが縁で知り合ったのでした。)が『夜は短し歩けよ乙女』を翻訳する際にはアシスタントをつとめさせていただきました。

 

 そんな大好きな森見登美彦作品たちですが、こんなに感動して衝撃を受けたのは『恋文の技術』(私の最も愛する森見作品)を読んで以来!!

 しかも管見ですが、今回は色々考えるべきことがありそうです。

 

 というわけで、色々愚見を述べたいと思います。

 ただあくまで、森見作品に対して意味や象徴を求めるのはご法度だと重々承知の上で。

 あまりに考えすぎてしまったときの合言葉は、マーク・トウェイン(『トム・ソーヤーの冒険』の著者であるアメリカの国民的作家)のこの言葉。

 

  この話に主題を探す者は起訴される。教訓を探す者は追放される。構想を探す者は射殺される。(マーク・トウェイン 柴田元幸訳『ハックルベリー・フィンの冒けん』 2017.12 研究社)

 

 

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ー歴代ファンにはたまらない

 

 一言でまとめると、この200年に渡る近代小説を越えようとした破茶滅茶にオモチロイ作品です。

 

「この酒場が夜の海を行く客船の一室のように感じられてきます。」(P.174)

など美しく幻想的な描写が基調をなして、言葉を読むことの幸せに満たされますし、

 

「彼女は腕まくりをしてそれらの知識を吸収した」(P.43)

というアニメのようなほほえましいかわいさもあり、

 

「小説家なんていうものは半ば空想の生き物であり、人類よりはムーミンに近い。(中略)モリミン谷の暢気な住民としての自覚を持つべきである。」(P.24)

などの笑えるアクセントのおかげで、テンポよく読み進められて飽きさせません。

 

 更には、もちろん京都も舞台になるため、芳蓮堂や進々堂など森見ファンにとってはにやりとする場面が多いです。(珍しく東京の描写があるのは、洛外の人間には嬉しい限りでした。)

 

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 ※我が家の森見作品。一作足りません。そして見慣れない本が…?

・あらすじ

軽く前半のあらすじだけ紹介します。

 

 初っ端から「森見登美彦」氏その人がでてきて、どうやらまた小説が書けないことを嘆いているらしい。しかもいつも通り、切迫感が感じられない(笑)。

 そんな登美彦氏が「沈黙読書会」なるあやしげな読書会に赴くところから物語は動き始める。(正確にいうと動いてない。この作品の味噌はそこだ。)

 その読書会のルールは、それぞれが謎を持った本を持ち寄り、その謎について話し合う。但し、謎を解いてはいけない!

 

 登美彦氏は『熱帯』という作品の話をしようと決める。かつて、登美彦氏が読みかけのまま紛失してしまった、佐山尚一『熱帯』。妙に内容がひっかかり、あれこれ探したが、だれも知らない。

 しかし、なんとその『熱帯』を持った女性がいるではないか。

 その女性(白石さん)が『熱帯』にまつわる自身の体験を語りはじめる。

 

 白石さんもその『熱帯』をかつて読みかけのまま紛失してしまった。

 いつかまた読みたいと思っていると、同じく『熱帯』の続きを知りたい池内さんなる人物と知り合う。

 池内さんは同じく『熱帯』を求める同志が集う「学団」という読書会に白石さんを誘ってくれる。

 

 池内さんに加えて、中津川さん、新城くん、そして千夜さんなる女性の四人で行われている「学団」。

 四人とも『熱帯』を手にし、読みさしたことはあるのにも関わらず、みんな途中で紛失してしまったという。

 彼らは定期的に集まっては、それぞれ記憶を出し合いながら『熱帯』の復元に努めている。

 しかし、物語のある個所まで思い起こせるものの、そこからは全員の記憶が食い違い、復元作業は暗礁に乗り上げているのだという。

 白石さんの登場で物語は少しだけ前進したが、この会の参加者たちにどこか気味の悪さを覚える。全員が『熱帯』に憑りつかれたとでもいうべき偏執ぶりだった。

 

 後日、参加者のひとり千夜さんから自宅に招待される白石さん。そこで彼女は『熱帯』の作品で起こる現象の幻覚を体験する。鍵は「満月の魔女」。

 

 ところがその後、千夜さんは『熱帯』の謎が京都にあると確信したらしく単身京都へと赴く。

「私の『熱帯』だけが本物です」という謎めいたメッセージを池内さんに残し…。

 

 千夜さんが出発したことと、実は千夜さんは、『熱帯』の著者である佐山尚一と知り合いだったということ、『千一夜物語』と何か関係が深いということを白石さんに打ち明かすと、池内さんは京都へ向かってしまった。

 

 そんな矢先に、白石さんが『熱帯』の秘密を知りながら隠しているに違いないと誤解した中津川さんと新城くんに追いまわされ、

池内さんから「京都にいましたよね?」という電話をもらうなど、奇妙なことが立て続けに起こり、白石さんは恐怖を感じる。

 そしていつまでたっても連絡のとれない池内さんから長い手記が送られてくる。

 

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 ここまでが、物語の約三分の一にあたるあらすじです。

 ここからはあらすじを全部書くのも興ざめであることに加え、あらすじというものを拒絶した作品構成のため、掻い摘んで紹介すると、

 池内さんの手記を基本に、そこで出会った人の話がめまぐるしく展開していきます。

 なにが現実で、なにが物語なのか、なにが夢なのか、今は誰のなんの話なのか。大海をコンパスもなく航海するように途方にくれるでしょう。

 

ー森見作品での分類 

 

 以上のような概略から、森見作品の中でも『きつねのはなし』、『宵山万華鏡』、『夜行』といった幻想文学物に該当する作品といえます。(個人的な分類ですが、大きく分けると「喜劇物」と「幻想物」。細かく分けるなら「学生物」「洛中物」「雑話物」など。)

 森見登美彦はもちろん、多くの幻想物の特徴に「現実と夢との淡いが薄い」というものがあります。

 今回はそれがいかんなく発揮された、あるいはそれを逆手にとった作品といえるかもしれません。

 

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※さきほどの私が持っている全森見作品で一冊だけ見慣れないものがあるかと思いますが、『四畳半神話大系』の韓国語版です。開くとハングルに混じって馴染み深い文字が…。

 

 

・世界の文学の中での『熱帯』

  さて、この作品の特徴を世界の文学の中で位置づけてみたいと思います。

 そのために、世界の小説史をざっと振り返りましょう。(長いので興味ない方は「小説史まとめ」まで飛ばしてOK!)

 私の読んできた作品に基づく恣意的な歴史ですので、乱暴な整理です。ご容赦を…。

ー文学のはじめは神話

 

 人類が言葉を使うようになったころから物語を語るという行為はなされてきたのでしょう。

 やがて「文字」が発明されるとその物語が書き留められるようになります。

 特に古いものは『ギルガメッシュ叙事詩』、『オデュッセイア』、『アエネーイス』『古事記』など、その国や王家の成り立ちを記した神話のようなものが多くを占めます。

ー民話や身近なことが文学に

 

 その後、昔から伝わる民話や説話を整理していく動きもはじまりました。

 たとえば、『今昔物語』や『ニーベルンゲンの歌』そして『千一夜物語』など。

 他にも詩歌を中心に、自分の身の回りのこと、戦争の英雄譚など、文学として描かれる題材は広がっていきます。

 

 ひとつの到達点としては、日本では10世紀頃の『源氏物語』、ヨーロッパでは13世紀のダンテ『神曲』などが挙げられます。

 自分の身近な題材に即しつつ(『源氏物語』は作者紫式部のいた宮廷、『神曲』は作者ダンテが地獄や天国をめぐる話で、行く先々で、自分の政敵や旧友と出会う。)、

想像の翼を閃かせた力作であり、読み継がれており、現在でも色あせてはいないでしょう。

ー小説の爛熟

 

 その後も文学作品は生み出され続けて、遂に18.19世紀に西欧で小説という概念が確立されました。

 それまでももちろん、物語はあったのですが、ひとりの作者が、作品を書いて、それを小説として流通させるというのはおおよそこのころです。

(ここらへんについて詳しく知りたい方は、文学YouTuber ムーさんのチャンネルに私がご招待いただき、文学とは何か?についてお話した動画があるので、そちらをご覧ください。)

 

 

 

ヨーロッパ小説にとって19世紀は花の時代ともいうべき時代で、

クリスマス・キャロル』のディケンズ

カラマーゾフの兄弟』のドストエフスキー

レ・ミゼラブル』のユゴー

森見作品によくある同じ人物が違う作品に登場する人物再登場法を生み出したバルザック

そして森見作品おなじみのジュール・ヴェルヌもこのころ活躍しました。

日本も時を同じくして明治維新。このようなヨーロッパ文学の流れを積極的に摂取して、夏目漱石森鴎外が文学を牽引した時代でした。

 

ー小説の革命

 

 そして、20世紀。

 端的にいって小説は限界を迎えていたのです。

 やれることはすべて前世紀までにやってしまった。(とみんなが思った。)

 

 そんな焦燥感が、第一次世界大戦の不安とともに爆発して、新たな潮流が生まれます。

 1920年代のジョイスやエリオットによるモダニスムです。

 それまでの文学を疑ってかかる、既存の文学をぶち壊す運動と括ることができるでしょう。(ちなみに音楽ではシェーンベルクが12音技法により調性を解体、第一次世界大戦前ですがピカソキュビスムなど、あらゆる分野で既存の枠組みに懐疑と破壊を施す運動が勃発しています。)

 

 その後も色々な「実験」がなされて、またもや疲弊した中、1960年代にラテンアメリカ文学が隆盛をみます。

 ボルヘスカルペンティエル、ガルシア=マルケスなど、それまでの文学ができなかったことを次々と成し遂げていくのです。

 

 森見作品はしばしば「マジックリアリズム」という現実と空想がゆるやかに連続していく作品として形容されますが、その始祖もこのラテンアメリカ文学にありました。

 

 その後もポストモダンなど、あらゆる試みがなされました。

 バーセルミ『雪白姫』には作中でいきなり、この小説って面白い?というアンケートが挿入され、次のページからは再び何事もなかったかのように物語が再開されたりします。(これは一種のメタフィクションです。)

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ドナルド・バーセルミ柳瀬尚紀訳)『雪白姫』(1995.8 白水社) より

 

 ちなみに、日本でも川端康成横光利一モダニストの系譜ですし、村上春樹ポストモダンの作家に位置付けることが可能でしょう。

 

ー最近はどうなの?

  小説を超えようと懸命にあがいた百年間。 

 しかし、おおよそのことはもう既に過去数千年の中でなされていたのです。

 

 架空の作家バルナブースの作品集という体で編まれた作品群である、ラルボー『A.O.バルナブース全集』も、

 ある人物が死んだことを示すためにページを真っ黒に塗りつぶした、スターン『トリストラム・シャンディ』も、

 見ず知らずの人間が無許可で続編を発表するとそれを次回作に取り込んでしまった、セルバンテスドン・キホーテ』も、

 巨人が大便小便を巻き散らかして悪者を蹴散らす、ラブレー『ガルガンチュアとパンタグリュエル』も、

 天狗となったかつての天皇やそれをとりまく源平の争いを描いた『太平記』も、

 紀元前にも関わらず月へ旅立つ奇想天外さを見せつけた、ルキアノス『本当の話』も、

 冒頭から鯨が鳥へと変身を遂げるところから大思想を展開する『荘子』も、

 

 すべてもう既に存在していたのです。

  

 遂に世紀の変わり目頃から、良くも悪くも実験的なことはいたずらに珍重されなくなりました。

 過去を越えることに固執しなくなったのかもしれません。

 それに代わって、「越境」「マイノリティ」「第三世界」が持て囃されるようになる。

 

 村上春樹も先日全米図書賞を受賞した多和田葉子(彼女は出自は日本ですが、ドイツで、ドイツ語を使った創作をしています。)もジュノ・ディアスもカズオ イシグロも、出自や言語、滋養のグローバル化が根底にあります。

 

 そういえば、そんな越境系作家といえるブルガリヤ系ドイツ人作家のイリヤ・トロヤノフには『世界収集家』という、『千一夜物語』を集めたリチャード・バートンを主人公にした小説があり、オススメです。

 

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ー小説史まとめ

 

 

 まとめます。

 小説にとって、19世紀は紆余曲折を経ながらも爛熟をみた時代でした。

 そして、20世紀は、前世紀の完成度が故に「小説が小説を越えること」が性急に求められた100年でした。

 今はまた新しい価値を広い視野で、グローバルに、通時的に探し求めているところです。

 

 ・それを踏まえて『熱帯』は?

 

 小説史、長かったですね。お付き合いありがとうございました。

 以上をふまえてここで『熱帯』に戻りましょう。

 

『熱帯』はそんな「小説を越える」という20世紀の問いに対して、「小説や物語を楽しむことの幸せを突き詰めることで応答する」作品と考えています。

 

 なぜ戦後間もない中国や死と隣り合わせの砂漠といった荒涼とした絶望からこの『熱帯』は立ち現れる必要があったのでしょうか?

  それは物語は絶望から生まれるからに他ならないのです。

 

 ー人が物語や芸術を求めるとは?

 

 突拍子もないことを書きましたので、いくつかの補助線を引いてみましょう。

 

 

 

 1945年ベルリンフィルブラームスのシンフォニーを演奏した音源が残っています。指揮はフルトヴェングラー。(録音の不備で第四楽章のみ現存)

 連日イギリス軍による空爆があり、市民は命の危険に晒されていました。それでも、人々は音楽を聴くためにホールへと詰めかけました。

 演奏中にも空爆があり、最後には非常灯のみがひっそりと照らす中、観客は演奏を聴き続けたのです。

 なぜでしょうか?

 

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 『博士の愛した数式』でおなじみ小川洋子の『物語の役割』という本より。(この本は物語の必要性を突き詰めた快著です。『熱帯』の副読本と言いたいくらい!短くて文章も易しいので、ぜひご一読ください。)

 アウシュビッツを体験したユダヤ人作家エリ・ヴィーゼルのエピソードが紹介されます。

 ある事件から絞首刑に処されるユダヤ人たち。

 大人たちがすぐに生き絶える中、子供は体重が軽いせいでいつまでも苦しみながらやがて絶命したといいます。

 そんな痛ましい現実をつきつけられ、ヴィーゼルは自分の現実を物語に仕立て上げ、そこに逃げ込みます。

 

  これは彼にとって信仰の革命でした。永遠なる全能者、絶対神を崇めるユダヤ教を信じていた少年が、アウシュビッツの悲惨な現実の中で、自分と同じ人間の中に神を見る。つまりその瞬間に、神と自分、神と人間を同列に見たのです。過酷な現実を突きつけられたとき、世界観をガラッと一八〇度変えてしまわなければ自分を保っていられなかったのだと思います。

(小川洋子『物語の役割』 2007.2 ちくまプリマー新書)

 

ー人間は物語を必要としている 

 

 なにが言いたいかというと、我々人間は「物語る生き物」だということです。

 

 物語らねばならない。

 生きるために物語、広く言えば芸術が必要だということ。

 それも極限的な状況ほどそれを欲します。

 

 我々は言葉を覚えた時から、物語をせがみます。それは「個体発生は系統発生を繰り返す」式に考えると、人類という種自体もそうだったのです。

 人類が言葉を手にした時から、物語る生き物だった。

 だから洋の東西を問わず、先祖代々伝わる昔話を蒐集した説話集が存在する。

 

 

 実際に多くの作家が物語の源泉を説話に求めました。芥川龍之介太宰治トゥルニエカルヴィーノユルスナールなどなど。

 そこには物語の根元が詰まっていると信じていたからだと思います。

 そして、その翻案は古くて新しい文学を切り拓くことに成功しました。

 

ー『熱帯』と『千一夜物語

 

 またまた脱線してしまいました。戻します。

 

 『熱帯』はそんな説話の最高峰『千一夜物語』を源泉にしました。しかもただ引水するのではなく、20世紀文学の課題の一つ「小説、物語とは何か?」という広大な海へ接続するように大きな開削をした物語です。

 

 構造自体が『千一夜物語』のように、ある人の話の中に、またある人の話があって、その人の話の中にまた違う話があって…。

 しかも、そういう構造を通して、物語とは何か?ということを皆が問い続けます。やがて、物語は「本」を飛び出して、世界中にあふれていることがわかります。

 

 また『物語の役割』の一節ですが、これが最適な言葉でしょう。

 

  物語は本を開いたときに、その本の中だけにあるのではなく、日常生活の中、人生の中にいくらでもあるんじゃないか

(同上)

 

ー生きることに物語は必要だ!『熱帯』の場合

 

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 このことを『熱帯』流に言い換えるなら、これです。

 

  この物語の扉が人の手によって閉じられると、我が言葉に充たされた千の夜の扉を開く。そのときにこそ私たちは、新しい世界を、新しい生命を生きることになるでしょう。あなた方が生きたいと願うように、私たちもまたいきたいと願うのです。

(『熱帯』P.476)

  この世界は夢と同じもので織りなされている

(『熱帯』P.477)

 

 つまり、我々は物語ることを宿命づけられている。我々が生きる以上は物語が存在する。

 

 さらに『熱帯』の一節です。

 

「彼女(※シャハラザード)は語り続けなければ生き延びられないからだ。その同じ魔術が君にその手記を書かせたとすればどうだろう。」

「生き延びるため、ですか」

「彼女は生きたいと願う」

(『熱帯』P.519)※は引用者による。

 

 ・物語があるという幸福

 

ー『熱帯』における魔法とはなにか?

 

 ここまで来ると核心も近いです。次の一節の意味がより一層明瞭になります。

 

 

「世界の中心には謎がある」

魔王は秘密を打ち明けるように囁いた。

「それが『魔術の源泉』なのだ」

(『熱帯』P.455)

 

 

 我々は「生きる」という大きな、そして根源的な謎を抱えています。それこそが「世界の中心」であり、そして「魔術の源泉」なのです。

 

 魔術すなわち物語とは、この「生きる」という大きな謎から生まれた幸福なのです。

 物語の幸福。

 

 そう、森見作品を知っている人と知らない人とでは、京都という町の景色は全く異なるでしょう。

 森見作品にとって、京都は、いつ街角から狸が現れ人に化けるか、送り火には飛行船が飛び、路地の奥には異世界への入口がある、そんな町です。

 

 もちろん実際にそんなことはなくても、そう思うだけで毎日ワクワクできる。物語ってステキだよね!って思える。

 それが『熱帯』なのです。

 

 

 だからこそ、この物語は、謎を解いてはいけない読書会から幕を開けるのです。

 我々の人生という大きな謎、それは解いてはいけない(いや解くこともできない。)、しかしそれをめぐって、様々なひとたちと出会い、語らう。

 それこそ魔術。

 

 ・まとめ

 

 一度まとめましょう。

 

 こういう複雑な構造は近代文学に於いては決して珍しくありません。(後述しますが、これは伝統的なものです。)

 しかし、そこにそもそもの文学の成り立ちという説話のあり方を付属させて、自身の今までの作品すら垣間見させるという野心に満ちた豪快さは珍しいし、本当に面白いものでした。

 長く森見作品を読んできたファンからすれば、最終盤のある一節は涙さえ流すのです。

 

 言い換えると、我々がなぜ物語を欲するのか?なぜ物語るのか?という根源的な欲求を描き明かした作品。

 それも、森見登美彦という作家自身をまるで解放してしまうかのような手法で、開かれた物語として世に問うたのです。

 

 『太陽の塔』という自身のデビュー作、京都という町、そして文学という体系自体の存在を根底から疑ってしまう。今までの読者であれば、見知った場所や作品がぐらぐらと揺れ動いたように感じたでしょう。

 それだけの大それた作品を作り、我々に物語の根源を問い直した。

 

 

 しかも、その根元にあるのは小難しいことではなくたった一言。

 

 

「面白きことは良きことなり!」

 

 

岩波文庫版『千一夜物語』と『熱帯』 

 

 

ここから、少しだけややこしい話です。短く済ませますので、お付き合いを。

ー 複数の千一夜物語

 

まず、『千一夜物語』について。

 

 『熱帯』に於ける最大のキーワードはイスラム世界が生んだ説話集『千一夜物語』です。

 作品でも多く言及されるように、『千一夜物語』はその成り立ちが千差万別で、定まったテキストがありません。

 収集する人によって、多くの異本が存在するのです。(多くの古典はそうですが、『千一夜物語』は特に顕著といえるでしょう。)

 

 私個人はちくま文庫から刊行された「バートン版」の訳本を数年前に読みました。

 今回の作品のキーとなったのは岩波文庫から上梓された「マルドリュス版」です。

 

 はじめのうちは、バートン版で読んだからマルドリュス版の訳も見られてラッキーくらいに気にも留めてなかったのですが、読み進めるうちに、引用される詩句がどれも美しい!と感激しました。

 それもそのはず。訳者の豊島与志雄渡辺一夫の両名は私がとみに好きなフランス文学者で、特に渡辺一夫は思想家としても愛読している方のひとりです。

豊島与志雄は『レ・ミゼラブル』やロマン・ロランの翻訳で著名。

渡辺一夫ラブレーというフランスを代表する大作家の翻訳で有名で、思想家としても立派な方でした。ノーベル賞作家の大江健三郎渡辺一夫に師事したいという想いから東大仏文科に進学したそうです。)

 

・日本の『千一夜物語』の苦難

 

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 悩んだ末、私は岩波文庫の『千一夜物語』全13巻をセットで購入してしまいました(笑)

 ちょうど『熱帯』を読み終えた頃に届いたので早速読んだのですが、大変驚きました。

 それは訳者のおひとりによるまえがきでした。引用します。

 

 

  フランス語訳『千一夜物語』は戦前すでに世界的名声を博していた名著であった。この日本訳は豊島与志雄渡辺一夫、佐藤正彰の三先生の手で、昭和十五年から岩波文庫で次々に発行されることになった。しかしこれも戦争のために長期間中断されることになり、戦後の続行計画も、混乱期の出版事情でなかなか順調には進まなかった。

 (『完訳 千一夜物語』(改版)1988.7 岩波文庫

 

 

ー訳者 渡辺一夫の苦労

 

 そうです、この本自体が第二次世界大戦という戦火の犠牲になっていたのです。

 

 渡辺一夫は1940年から東大の教員として赴任し、教え子たちが戦地へ送られていく様に絶望を感じていました。

 なにより、自身の専門であるフランス文学を読むこと自体が非難されていた時代です。当時の苦しみをこう綴っています。

 

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  自警団的な偏狭と狂信とが歓呼の声に包まれ、洋書を読むことは「非国民」的とされていた

渡辺一夫『老耄回顧』 『渡辺一夫評論選 狂気について 他二十二篇』所収  1993.10 岩波文庫

 

 教え子である大江健三郎も、渡辺一夫が当時ラブレー『ガルガンチュアとパンタグリュエル』を翻訳することに苦心していたことを述べています。

 

 

 つまり、この岩波文庫版『千一夜物語』という作品自体が、戦火の中、大変な苦労をかいくぐりながら、そしておそらく物語を欲するという強い気持ちから出版されたものだったのです。

 まるで『熱帯』の中で、「ひとつの『物語』を持ち帰ってもらいたい」と人から人へ物語が託されていくように。

 

 

 自由に物語が語れるようになったとき、その喜びは幾ばくのものだったでしょうか。

 

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 渡辺一夫は戦中にフランス語でつけていた日記で、終戦直後こう記しています。

  八月十八日

  母国語で、思ったことを何か書く歓び。始めよう。

渡辺一夫『敗戦日記』1995.11 博文館新社

 

※余談ですが、ラブレー『ガルガンチュアとパンタグリュエル』は、鹿爪らしい言葉で馬鹿馬鹿しいオモチロイ話を書く大傑作です。

森見好きにはウケるかもしれません。(ちくま文庫宮下志朗の翻訳が読みやすい。)

そして、渡辺一夫は、戦中にそんなラブレーの翻訳に後ろめたさを少し感じたのではないか。だから、トーマス・マンを訳したのではないか。

今回の『熱帯』には同じ問題意識が萌していないか…というのは妄想なので切り上げます。(無論、ラブレーも森見作品もただ面白いだけではないのですが。)

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ー『熱帯』における物語の受け渡しも大変だった 

 『熱帯』では第二次世界大戦後まもない満州が描かれます。

 森見登美彦作品らしからぬ舞台です。そこから『熱帯』(のひとつ)が生まれていきます。

 

 なぜそんな舞台が用意されたのか?

 少し大袈裟かもしれませんが、『熱帯』はただ物語るということの幸せを言祝いでいるだけではないからと考えています。

 

 先述の渡辺一夫のように、物語るということはいつの時代も困難を伴ってきました。

 

 その理由はさまざまありますが、ひとつ挙げるなら、物語はしばしば必要のないものだと蔑まれてきたこと。

 それこそ物語が受けてきた迫害の経験でした。

 

 今こうして本に夢中になって、ああ楽しいなあって虚心坦懐に思えること。

 それは当たり前のことではなかった。

 

 そんなことに思いをはせずにはいられませんでした。

 

メタフィクションについて 

 つづいて、メタフィクションについてほんの少しだけ。

 

 『熱帯』はメタフィクションです。

 

 メタフィクションとは簡潔に言うなら、フィクションとは何か?を問いかけるフィクションのことです。

 そもそもフィクションとは何か?あるいはフィクションではない、すなわちノンフィクション、リアルとはなんでしょうか?

 

ーリアルが問い直された時代

 

 「real」という英語はOEDという最大の英語辞書によると1601年に初めて使われました。

 更に、「fact」は1631年。

 

 この1600年代前半のイギリスは、「現実と非現実」というものが問い直された時代でした。(現実を重視するピューリタンという新しいキリスト教徒の一派が国を支配したことが関係していますが、深入りしません。)

 現実とは何か?あるいは非現実とは何か?が問われるようになり、文学(演劇)でもそのような作品がたくさん生み出されます。

(dataもfactも、元々は「与える」を意味するラテン語do(dare)、「作る」を意味するfacioで、客観的な事実という意味とは無関係でした。)

 

 それはどんな手法か?

 ずばり、作品の中で、また違う作品を展開すること、あるいはその作品自身に作中で言及することです。

 

メタフィクションの実例 

 

 ピンとこないかもしれませんが、たとえば、漫画の中で登場人物が「もう最終回かよ!」とか「作者のバカヤロー!」と言ってみたりするあれです。

 

絵画でいえば、画中画というものがあります。たとえば、フェルメール『画家のアトリエ』という作品。

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B5%E7%94%BB%E8%8A%B8%E8%A1%93_(%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%81%AE%E7%B5%B5%E7%94%BB)

 

 

 これについて美術史学者の高階秀爾はこう述べています。

 

  (※画面の女性は)描くということそのもの、すなわち「絵画」を意味するアレゴリーと考えた方が自然である。

高階秀爾『名画を見る眼』1969.10 岩波書店)※は引用者による

 

 つまり、絵の中に絵を描く自分を描くことで、「描くこと」自体を見つめなおしているのですね。

 

 

 あるいは、ある紋章の中に、その紋章の小さい相似形を刻印する紋中紋(Mise-en-abîme) というのもそれにあたります。

 

 いずれも入れ子構造にすることで、その行為、現象自体にスポットを当てる。

 我々が漫画を読んでいるときに、いきなり「おい作者!」と登場人物に言われたら、ハッとして、今夢中で入り込んでいる行為には作者がいたんだと意識させられるでしょう。

 

 ー文学におけるメタフィクション

 

 文学に話を戻すと、この1600年代の代表的な文学者といえばなにをおいてもシェイクスピアです。

 彼の『夏の夜の夢』は、演劇の中で、みんなで演劇をするシーンがありますし、『ハムレット』は作中の夢によって物語が駆動します。

 

 ひどいものになると、リチャード・ブルームという作家の”The Amtipodes(足の裏)”という作品は、劇の中で劇が行われ、またその劇の中で劇が行われ…と延々と続いていきます。

 

 つまり、メタ文学すなわち「文学自体とはなにかを問い直す文学」というジャンルが伝統的にあるわけです。

 『熱帯』はまさにそれ。

 

 

 さて、メタ文学が宿命的にはらんだ問題を考えます。

 

 それはいつまで自己言及を続けるか?です。文学についての文学についての文学についての文学について…というように無限に続けられます、鏡と鏡とを向かい合わせにするようなものです。

 とするとその終わらせ方は

  1. その自己言及の崩壊
  2. 未完

です。

 

 『熱帯』はいつまでもいつまでもこの構造を続けていくので、私は途中からどちらで終わらせるのだろうと楽しみにしていました。

 

 結論からいうと大きく分けると②ですが、エッシャーのだまし絵やメビウスの輪のように、円環を描くことでこの迷宮を完成させたといえるでしょう。(読んだ方にはおわかりといただけると思います。)

   これは後ほど詳述します。

メタフィクションまとめ 

 

 話がややこしくなりましたが、

 まとめると、このように自己言及的なメタ文学というジャンルがあります。

 そして、それはそのジャンル自身がなにかということを問いかける効果を持っています。

 だからこそ、この「物語とは何か?」と追い求める『熱帯』にはぴったりの形式であったということです。

 

・全てを円環にするデフォー『ロビンソン・クルーソー

 

ー『ロビンソン・クルーソー』とは

 

 メタフィクション、円環、現実/非現実、手記などテーマが散らかってしまいました。全てをつなげる最後のピースに登場していただきましょう。

 

 それはこちら!!

 

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 ダニエル・デフォーロビンソン・クルーソー』!!

 

 『熱帯』でもしばしば引き合いに出された作品です。

 さきほどのシェイクスピアから少しあと、1719年のイギリスで上梓されました。

  作者のダニエル・デフォーは、今でいうジャーナリストで、他にもスパイなどをやっていたと言われています。

ーなぜ『ロビンソン・クルーソー』が大事か?

 

 『熱帯』の大事なポイントに現実と非現実、フィクションとノンフィクションとの境があいまいになるというものがありました。

 

 さきほど17世紀イギリスで「現実/非現実」が問い直されたと書きましたが、裏を返すと、まだその差異が明確になっていなかったからこそ、取沙汰されたのです。

 『ロビンソン・クルーソー』が書かれた18世紀前半でもまだ事情は大きく変わりませんでした。

 

  今日、ニュース(news)は、あったことをあったまま伝えるものということになっている。一方、小説(novel)は、いくらでもうそ(フィクション)を書いていいことになっている。

  ところがデフォーの時代は、ニュースとノヴェルをまったく区別しなかった。なぜならば、元々ノヴェルは「小説」という意味の名詞ではなく、「新しい」という意味の形容詞である。新奇さを好奇心満々で追うためのジャンルがあったのであって、その前に「うそ」「本当」の区別などどうでもよかったのだという気すらある。

高山宏『近代文化史入門』 2007.7  講談社

※このあたりの事情については、前掲の動画で関連事項含めて色々語らせていただきました。よければご覧ください。

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 つまり、デフォーは『ロビンソン・クルーソー』をフィクションかノンフィクションかという意識を持って書いたわけではないということです。

 もう少しこの『ロビンソン・クルーソー』について議論を見てみましょう。

 

  小説(※『ロビンソン・クルーソー』)の過半がデータになっていて、この島は周囲二十七マイルあって、百何十本の木が生えていて……という感じでいく。

  生えている木が百八十本だろうと百九十本だろうと、小説を読んでいく上ではどちらでもよい。拾った釘が六本だろうと七本だろうが、どうでもよいはずなのに、しっかり「七本だ」と断定する。すると何となく信じてしまう。これはなぜなのか。詳細なデータが威力を持つ。

高山宏『近代文化史入門』 2007.7  講談社)※は引用者による。

 

 

 

ー円環を描くことこそ完結

 

 

 つまり、『ロビンソン・クルーソー』では、嘘も本当もいれる代わりに、ディテールをやたらと細かく書く。

 それでとにかく信じ込ませるという狙いがあったのでした。

 

 ですが、それよりもっと大事な狙いがあったのです。ここで「円環」というキーワードとつながります。

 『ロビンソン・クルーソー』とそれに関連した百科事典についての文章をいくつか引用します。

 

  たくさんのデータを蓄積していくことを「教養」と思う時代が、この頃(※『ロビンソン・クルーソー』の頃)から始まっている。

  一七二八年に、ある百科事典が出た。デフォー『ロビンソン・クルーソー』の九年後(中略)に出たイーフリアム・チェンバーズ(一六八〇頃~一七四〇)『サイクロペディア』である。

  「ペディア」はギリシャ語の「パイデア=教養」に由来する言葉である。それを勉強すると、知識が丸く閉じる。これは日本でいう円相もしくは円満具足の感覚だ。あらゆるものを勉強すると、丸く完結したひとつのまとまりになる。

高山宏『近代文化史入門』 2007.7  講談社)※(※内)と下線は引用者による。

 

 

 色々なデータ、ファクトを羅列して、それを吸収することで、

円環を描く、円満に完結するという思想が根底にあったのです!!

 

 実は『ロビンソン・クルーソー』にも、魚の釣り方や火のおこしかた、家の作り方など、あらゆる知識を網羅するという狙いがありました。(こういった文学を「百科全書的」と呼び、メルヴィル『白鯨』、ピンチョン『重力の虹』など枚挙にいとまがありません。)

 

 さあ、かなり『熱帯』の問題と関わってきました。

 

 

ー『熱帯』の退屈さ

 

 

 もう一つ。

 あれだけ面白い『熱帯』で、少し退屈だなと感じた箇所はなかったでしょうか?

 私、そして『熱帯』を読んだ知人二人の計三人で合意したのですが、「第四章 不可視の群島」からしばらく退屈でした…。(ごめんなさい。)

 それまでの流れが中断したことが大きいのでしょうが、いまいち乗れない…。

 

 これを『熱帯』の欠点とはねつけるのは簡単なのですが、敢えて「狙い通り」ないしは「正当」だと断じたいのです。

 そのヒントも『ロビンソン・クルーソー』にありました。

 

 『ロビンソン・クルーソー』の解説を引用します。

 

  (※『ロビンソン・クルーソー』の冒頭を読んで)まるで素人が書いた日記か自伝みたいじゃないか、と思ったならば、それは作者の狙いどおりである。そもそも『ロビンソン・クルーソー』は文学作品として世に出たわけではなかった。(中略)表紙を見ても、作者であるデフォーの名前はどこにもない。これは「ロビンソン・クルーソー」なる人物の回想録のフリをして出版されたのだ。だからいかにもそっけなく「文学的」ではない。

(デフォー(武田将明訳)『ロビンソン・クルーソー』2011.9 河出書房新社

 

  デフォー『ロビンソン・クルーソー』もある人物の日記!だから退屈さを装った。

 そして『熱帯』も…!!!!

 

 ちなみに『ロビンソン・クルーソー』はあまりにも退屈で(有名な漂流するシーンは開始から1,200ページ後です(笑))、勝手に面白いところだけを抜き取った海賊版すら出版されたといいます。

 

 『熱帯』は無論、どんどん面白くなりますが、それでも4章序盤は正直に言うと退屈でした。

 しかし、それは『ロビンソン・クルーソー』の、つまりは日記・手記であることのオマージュだとしたら…。

 『熱帯』の構造のカラクリを考える大きな手掛かりになりそうです。

 

ー『ロビンソン・クルーソー』との比較まとめ

 

 ここまで散らかった問題を『ロビンソン・クルーソー』を手掛かりに全部を「円環」にしてみました。

 

 ポイントは、『熱帯』とかかわりの深い『ロビンソン・クルーソー』が書かれた17世紀イギリスには、

・おもしろければフィクション/ノンフィクションの区別は二の次

・円環で完結という思考があった

・『ロビンソン・クルーソー』も日記だった

・だから序盤は特に退屈(作者の狙い通り)

 

ということです。

 

 『熱帯』の秘密に少し近づけたように思えませんか?

 

 

最後に

 

 長い長い文章になりました。

 拙文にお付き合いいただいて、本当にありがとうございました。

 とにかく森見登美彦『熱帯』は最高にオモチロイ作品です。

 ぜひ『熱帯』をめぐる読書会を色々な方としてみたいですし、このような小難しい話ではなく、もっと純粋にどういう構造かなあとかあのシーン好きだなあという話にも花を咲かせたいと思います。

 なにか『熱帯』関連のイベントがありましたら、ぜひお目にかかったことのない方でもご連絡ください。

 

 ご高覧ありがとうございました。

 

続きはこちら『森見登美彦と太宰治~『熱帯』をめぐって②~』

 

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メタフィクションに関する言及は高山宏氏に多くを拠っています。この場を借りてお礼を申し上げます。無論、誤りその他は私の責任の負うところです。