森見登美彦と太宰治~『熱帯』をめぐって②~

 

森見登美彦太宰治~『熱帯』をめぐって②~

  

 前稿(『森見登美彦『熱帯』をめぐって』) は幸いにして多くの方々にご覧いただき、少なからぬ反響を頂戴しました。

 本当にありがとうございました。

 SNSというものの広大さを改めて思い知るとともに、森見登美彦という作家の大きさに感動を覚えた次第です。

 

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 いただいたメッセージには、勉強になった、『熱帯』を読みたくなった、読み返したくなった、面白かったという激励のものもあれば、『熱帯』を借りて手前の知識を披歴したいだけの自己満足など読むに堪えぬという厳しいご叱責の言葉までございましたが、いずれも貴重なご意見として賜った次第です。

 

 

 特に、文学YouTuberムーさんは、YouTuberらしくご自身でも『熱帯』に関する動画を公開なさり、その中で私についても多くの言及をしてくださいました。

 この場をお借りして御礼申し上げます。(『熱帯』の魅力、ムーさんご自身の読書体験や批評のさわりが、感動の気迫とともに伝わる素晴らしい動画です。)

 

 

 更にチャンネルへご招待いただき、『熱帯』について話をさせていただく機会まで頂戴しました。こちらでもご紹介いたします。

 

 

 

 

 

 

  

 

 さて、いただいた反響の中で、「太宰治森見登美彦」についてはどう考えているのか?というものがございました。

 

 この二人が並ぶのは必然というべきか当然というべきか。

 とにかくこのような本まで上梓されているので、誰もが気になるところかと思います。

 

 

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森見登美彦『新釈 走れメロス 他四篇』2009.10 祥伝社文庫(後、角川文庫)

森見登美彦編『奇想と微笑 太宰治傑作選』2009.11 光文社文庫 

 

 そういえば、『夜行』にもこんな一節がさらりとありました。

 

  津軽鉄道五所川原駅から津軽中里駅までを結ぶローカル線で、沿線には作家太宰治の出生地もあります。

森見登美彦『夜行』2016.10 小学館

 

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 前稿で太宰治との関連は当然書こうと考えたのですが、ある事情により書くことをやめました。

 それは私の書こうとすることの殆どが、ある学者のご意見に依拠しすぎているからです。

 

 安藤宏

 東京大学日本文学研究科教授で、専門は日本近代文学、特に太宰治

 

 日本の近代文学に関する知識の多くはこの方より学び、私の近代文学への見解はこの方の論に育てていただいたようなものです。

 その中でも特にこちら。

 

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 安藤宏太宰治 弱さを演じるということ』筑摩書房2002.10(以下、『太宰治』と表記。)

 

 この本を読んだときにびっくりしたのです。

 

 太宰治&津島修二という作家&人間について基本的なことから解釈まで網羅的に書かれた太宰治入門の決定版というべき本なのですが、当時私が森見登美彦に抱いていたことと多くが重なるのです。

 

 極端な話、三分の一くらいは、文中の「太宰治」を「森見登美彦」に置き換えても意味が通じるくらい。(絶版となってしまいましたが、古書店等で安価に手に入ります。ぜひ。)

 

 というわけで、私が太宰治森見登美彦について何かを書くと、ほとんどが受け売り、引き写しになってしまうし、そして太宰と森見を比べるとどうしても森見作品から現実的な側面を引き出さざるを得ないので、前回は断念しました。

 

 しかし、ご意見を頂戴したことに加えて、あれからいくつかの太宰作品を久々に読み返したことから、少しはオリジナルなことも書けそうだと思い、追補の形で筆をとった次第です。

 

 但し、再三強調しますが、あくまで多くを安藤宏による太宰論に負っています。従って、紹介に近い形になりますことをご容赦ください。

 当然責任は私に帰しますが、その功績、独創は私の誇るべきものではございません。

 

 

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 さて、太宰治といえば何を思い浮かべるでしょうか?

 『走れメロス』?『人間失格』?『斜陽』?心中事件?よくモテた?ピース又吉直樹?

 

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 太宰治森見登美彦との共通点はずばりこれ!

 

①青春のはしか/青春の病

②ダメ人間を描く(ダメ人間であることを演じる)

③ナンセンスの追求

④小説が書けないことを書く小説

⑤メタ情報の混入による、作者と読者の共犯関係の成立

⑥パロディ

私小説家+ストーリーテラー

 

 

順番に検討していきましょう。

 

 

①青春のはしか/青春の病

②ダメ人間を描く

 

 

  太宰治を嫌う人は多い。(中略)

  「青春のはしか」という言い方も用いられる。青春時代に誰でも一度は太宰を通過しなければならないが、いつまでも読んでいるのは未成熟なのであるという。

(『太宰治』 P.22)

 

  (『人間失格』などの太宰治の作品を―※引用者)読むと、劣等感や欠如感を隠さず、一見謙虚に自己の欠陥を語るかに見えながら、その実したたかに開き直り、自己弁護をしながら周囲への批判を展開していく

(『太宰治』P.27)

 

 

 なるほど、確かに森見登美彦の作品(特に『太陽の塔』、『四畳半神話大系』、『四畳半王国見聞録』『恋文の技術』などの学生物)にも、一見劣等感に苛まれながらも、その実腹の座った阿呆というものがよくあらわれますね。

 そして、彼らの患っている病こそ、「青春のはしか」というべき病で(厨二病の類型とでも呼ぼうか)、だからこそ10代20代の若者を中心に人気を博するのだろうと思います。

 

  言い換えると、太宰治をど真ん中で楽しんでいる世代や性格の若者たにが、森見作品で活躍しているといえるでしょう。

 

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③ナンセンスの追求

 

 

 森見登美彦の作品といえば、やはり「笑い」です。そして太宰治も「笑い」を大事にした作家であり、『奇想と微笑』は笑いの太宰に焦点を当てて編まれた作品集でした。

 さて、太宰治の笑いとはなんでしょうか?

 

 代表的なものは「ナンセンス」です。ナンセンスを、ここでは「嘘」「空かす(相手の主張に対して、反論や同意をするのではなく、少しずれた反応をする)」と定義します。

 

 太宰治の作品は、真面目に嘘をつきます。

 

 たとえば、『ロマネスク』の「喧嘩次郎兵衛」という作品は、喧嘩に強くなりたい一心で鍛錬を続けたら、その屈強な見た目から誰も近寄らなくなり、喧嘩をすることもできない。自分を慕った女をその腕力で殺してしまうという話です。

 この怪力ぶりが「嘘つけw」と言いたくなるくらい誇張されたものに加えて、こんな荒唐無稽な話に教訓を加えます。(それは当時の芥川や菊池寛が得意としたテーマ小説への皮肉ともとれます。)

 

 しかし、そんな誇張や嘘というものは、近代には軽んじられたものでした。

 近代では合理的精神こそ貴いものであり、非合理な嘘やまやかしは下賤な物とみなされていたことは周知のことでしょう。

 

 

  そもそも江戸戯作を中心に、近代以前の文学には何と豊富に「ナンセンス」の伝統が息づいていたことだろう。明治以降の文学の展開は、現実をリアルに写実しようとする疑似科学主義が浸透するのに反比例するように、非合理な「嘘」や「出鱈目」が周縁に追いやられてきたプロセスでもあった。このように考えてみると、太宰治高見順織田作之助ら一連の作家に「新戯作派」という呼称が与えられたのはきわめて象徴的である

(『太宰治』P.106)

 

 なるほど。嘘を嘘として尊ぶ精神、それは一見非合理かもしれませんが、実に尊い精神だといえます。(余談、織田作之助は『夜は短し歩けよ乙女』を読んだ読者からするとなじみのある名前ですね。)

 

 

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  われわれは人生の役に立つ教訓を得るためだけに小説を読んでいるわけではない。フィクションは単にフィクション(絵空事)であってよいはずだ。絶えず自らの行為に意味づけをしなければ生きていけぬのが人の哀しい性であるとするなら、フィクションからアレゴリーを求めようとするこうした読み方自体を風刺し、笑い飛ばしてみせるのもまたフィクションの役割にほかならないのである。

(『太宰治』P.107)

 

 ここに私が森見登美彦を「解釈」することを躊躇する理由があります。

 

 森見作品はしっかりと練られた面白みのある作品であるのみならず、多くの先行文学を下敷きにし、寓意に満ちた言及もありますが、そういうアレゴリー(寓意)や解釈から屹立している。ナンセンス文学なのです。

 

 だからこそ、下手に解釈を施すことは冒涜に他ならないとすら考えています。ただ、『熱帯』については、そのナンセンスを等閑に付して、意味の世界に漕ぎ出した。ですから、私も読み取ってみようと考えました。

 

 

 話を戻しますと、「ナンセンス」とは、通常では人と人との議論は意味Aに対して意味Bを投げつけて、AかBが勝つまたは新たな意味Cを目指す。

 しかし、ナンセンスは意味Aに対してナンセンス(意味なし)を投げつけることで、意味Aを疑いなおす力、笑いとばせる力が発生します。(リチャード・リアに『ナンセンスの絵本』という怪作がありますが、あの本も嘘や空かしまみれで日常を誇張して、リズミカルで無意味な言葉で現実を笑いとばします。)

 

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 さて、森見登美彦ファンならば、この「ナンセンス」ときいてなにか思い出さないでしょうか?

 ある意見に対して、絶妙にずれたことをまくしてたてて、議論を無に帰す…。

 

  我ら鰻の如くぬらぬらと詭弁を弄せざるべからず

森見登美彦夜は短し歩けよ乙女』2008.10 角川書店

 

 そう詭弁論部です。

 詭弁論部は言うまでもなく、ディベートを目的とする弁論部のもじりでしょうが、その実、「好きな男と結婚する女は馬鹿だ」という奇想天外な主張を強引にまかり通らせたり、詭弁踊りに興じる摩訶不思議な集団です。

 

 太宰治が弄するナンセンスな笑い、森見登美彦の笑い、そしてその精髄は詭弁論部によって担われていたと考えることができるでしょう。

 

 

 

④小説が書けないことを書く小説

⑤メタ情報の混入による、作者と読者の共犯関係の成立

 

 『熱帯』の冒頭、『恋文の技術』のいくつかの書簡など、「森見登美彦」が森見登美彦の小説に登場するときは、「小説が書けない小説家」として登場します。

 『ぐるぐる問答』という対談集には、現在の森見登美彦と過去の森見登美彦(まだあまり小説家として名が広まる前で、小説を書く自信がない)との対談という広い意味での自分を登場させたフィクションまであります。

 

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 太宰治にも、はっきりとそうと言わなくても明らかに自分自身をモデルとした人物が登場します。これは「私小説」という日本近代に独特な文学形態ですが、太宰治の場合にはそれが少し高い次元で行われていました。

 

 

(『道化の華』という作品には、-引用者による)『道化の華』の作者である「僕」が自在に顔を出し、何を書きたいか、あるいは何が書けないかを読み手に向かって次々に注釈していく形がとられているのである。

(『太宰治』P.52)

 

 太宰治私小説の特徴は自分が小説を書くこと自体を物語にしていく、その厨、工房、その過程をそのまま書いていくところに特徴があります。

 すると、どんな効果が生まれるのか?

 

 

  かつてテレビの健康飲料のCMで、「まずい!」と強調するのが大変好評を博したことがあった。ことさらに商品の欠点を言ってみたり、経営者が自分の会社の窮状を強調してみせたりする戦術である。むろん、それ自体が作られた”本音”であるにはちがいないが、同時にそこからはある種の太宰的な身振りが漂ってくるようだ。少なくとも読者(視聴者)は建前の情報(商品の宣伝)の背後にある舞台裏の事情を知って安堵を覚える。(中略)それが情報に関する「情報」、すわたち「メタ情報」であるがゆえに、読み手は思わず耳を傾けてしまう。送り手と受け手との間に疑似的な「共犯関係」が成立し、ともに物語成立に関わるコミュニケーションを実践しているのだというプライヴェートな連帯感が内容とは別にもう一つの「作者と読者の物語」を立ち上げることになるのである。

(『太宰治』P.57)

 

 つまり、読者にとっては、その物語を読むと同時に、その物語がどういう意図や苦労のもと書かれたのかという物語も楽しむことができる。

 それはあくまで仮構された「作者」ですが、我々は「物語+「作者」」と向き合うことから、物語に安心して入り込めるのです。

 

  物語がどのような事情や背景のもとに発信されるのかを知るためにも「小説家」の個人情報が必要とされたのである。

(『太宰治』P.60)

 

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 『熱帯』では、あまりに荒唐無稽な話だからこそ、そこに作者が介在することで、一緒に入り込みやすくなったといえます。

 『恋文の技術』でも、我々が笑えるのは、本当に「森見登美彦」が新作を書き上げる中で、能登まで行ったのではないか、今まさにこの事件が起きているのではないかというアクチュアルさが面白さを引き立てます。加えて、基本的には主人公の書簡のみで書かれるからこそ、彼の書簡でしか他の人物の動向や返信は窺い知ることができない。しかし、作者の顔がのぞくことで、その存在感がグッと増すのです。

 

 さて、この文章の冒頭で、私は前稿に対する読者からの反応を掲載しました。

 

 実はあれ嘘です。

 ごめんなさい。いや、ご要望をいただいたことなど一部は本当なのですが、特に罵詈雑言は完全に虚構です。

 しかし、あれを読むことで、私の顔、動きが見えるようになりませんでしたか?

 前回の記事と比較していただけると、もう少し生身の書き手が見えた、こいつはこういう動機で、こういう狙いでこの文章を書いているのだな、と。安藤宏という著者に依拠することまで含めて、手の内を明かしたのもそうです。

 

 これが、書き手自身をオープンにする効果です。あれがあるのとないのだと、この文章への入り込み方も違う。少しでも実感していただければ、したり顔です。

 

 

⑥パロディ

 

 

 森見登美彦はパロディを得意とします。『新釈 走れメロス』は言わずもがな、『熱帯』は『千一夜物語』はじめ多くの先行作品を下敷きに織られています。

 太宰治もパロディの名手でした。

 

 それでは文学作品に於いて、パロディとはどのような効果をもたらすのでしょうか?

 

 

  『新ハムレット』と『お伽草子』(中略)がいずれもパロディであるのは決して偶然ではない。すでに先行する作品の記憶があることによって、こうしたメタ情報(原作をどのように創り変えていくのかという情報)が大変実現しやすくなるからである。

(『太宰治』P.58)

 

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 メタ文学をやるには、パロディは極めて都合のいい文学形態だということです。

 

 メタ文学の主眼は「内容+その内容への言及」。言い換えると、二つのコンテンツを読み手に届けるわけです。

 とすると、単純に中身を伝えるよりは難しくなるので、できれば内容はみんなが知っているものがいい。

 「そのみんなが知っているものをどうずらすか=内容への言及」というわけです。

 パロディをして、どうしてそういうパロディにしたかを語る、というのが、作者にも読者にもわかりやすいメタ文学になるからといえるでしょう。

 

 森見登美彦作品では、そのズレによって笑いや恐怖を生む効果ももたらしていることも注目に値します。

 『新釈 走れメロス』 所収の五篇はその最たるもので、いつか詳しく比較検討した記事を書きたいと思っています。しかし、『走れメロス』があれだけ馬鹿馬鹿しく、そのズレに着目して安心して笑えるのは、元ネタを知っているパロディだからこそでしょう。

  これは次の項目で敷衍しますので、次に移りましょう。

 

私小説家+ストーリーテラー

 

 

 ここが一番書きたいところです。今までの総決算でもあります。

 

 日本の散文文学には二つのパターンがあります。

1.自分の私生活を書いていく。日記型、私小説

2.物語をつくりあげていく、ストーリーを語る。物語型

 

 前者の代表選手は、田山花袋徳田秋声など。後者は夏目漱石森鴎外など。

 

 太宰治はこの両方を見事に使い分け、時に融合させることのできた稀有な才能の持ち主で、だからこそ今でも読み継がれているのでしょう。

 

 

  太宰治は常に自身の実生活について語り続けた作家である。その意味では伝統的な「私小説」の系譜につながる一面を持っている。そしてもう一方で、(中略)ストーリー・テラーとしての才能―が高く評価されてきた。一体、一人の作家の資質がこれほどまでに大きな評価の差となってあらわれる例も少ない

(『太宰治』P.59)

 

 太宰治の初期の短編には私小説味の強い『道化の華』、『列車』、物語性の強い『猿ヶ島』『魚服記』など、両方の型があります。

 やがて『ロマネスク』『猿面仮者』など、その両方を自在に使い分けた作品が登場するのです。

 つまり先述のメタ文学というものです。

 

 

 ここが一番大事です。繰り返します。

 

 太宰治は、物語を物語ることに加えて、その物語を語る作者(自分自身)を登場させた。それによって、その物語がどのように創られたか、どのように受け取ってほしいかを示すことができた。読者は、それによって作品に入り込みやすくなり、作者も多くの情報を発信することができた。

 

 これが太宰治太宰治たるゆえんです。

 

 さあ、肝心の森見登美彦はどうでしょうか?

 

 ずばり、森見登美彦は、語り手「森見登美彦」を仮構した太宰治といえるでしょう。

 

 森見登美彦は、太宰治のような私生活のハチャメチャさや堕落さもなければ、それをそのまま書くということもない。しかし、メタ文学を書くために作者を出すとなると、架空の「森見登美彦」を仮構することが一番手っ取り早いのです。

 もちろん全くの別人ということはないでしょうが、かなりの部分(少なくとも太宰治に比べれば)は虚構の存在です。

 

 「小説の書けない小説家」「自虐的な語り手」これはいずれも、作家・森見登美彦が、作中の語り手・森見登美彦へと仮託した存在。

 これによって、物語がより高次の次元へと飛翔できたのです。

 

 森見登美彦ストーリーテラーとして稀有な存在です。しかし、そこに仮構された「語り手・森見登美彦」が設定されることで、我々はもっと安心して世界に入りこみ、語り手との共犯関係の元、笑うことができるのです。

 

まとめ

 

 太宰治の手法を検討することで、森見登美彦という作家の魅力が少し明らかになったでしょうか。

 いま一度まとめると、

 

 太宰治は、笑いやはぐらかしなど多くの情報を文学に盛り込むために、「物語」と「その物語を語る作者自身」を描く物語を書いた。つまり、「物語+私小説」。特にパロディはそれを実践するのに適していた。それによって読者は、作品世界に入り込みやすくなり、笑ったり、作者自身の人生を楽しんだ。

 森見登美彦は、そんな「物語を語る作者自身」を仮構することで世界観を創ることに成功した。特に太宰治のパロディ、ダメ人間さ、ナンセンスは見事に継承されており、独自の世界観を切り開いている。

 

 

 『熱帯』、三回読みました。読むたびに新しい発見のある最高の作品です。その発見のいくつかは先の動画で、少し話しています。動画後編(二本目)では、作品の一文一文に着目してかなり丁寧な話をさせていただきました。

 

 更に幸運なことに沈黙しない読書会にも当選を果たしたので、そちらでお目にかかれる方はぜひ声をかけてください。

 

 

 沈黙しない読書会に関するレポートはこちら(12/18公開)

沈黙しない読書会と直後の読書会~『熱帯』をめぐって③~